STORY OF DAIICHI二人三脚で築いた礎

夫・米蔵と妻・喜代。
創業 65 周年を迎えた株式会社ダイイチ、そのルーツは一組の夫婦にあります。
二人の半生を辿りながら、当社が歩んできた歴史をご紹介します。

1947ダイイチの原点「洋裁店すずや」

木更津出身の米蔵と、横浜出身の喜代。
当時、文化服装学院で立体裁断を学んだ経験を活かし、木更津に洋裁塾を開校していた喜代。結婚を機に洋裁塾に併設する形で「洋裁店すずや」を開店させます。この小さな洋裁店がダイイチの原点となりました。農家の家に生まれ、本格的な客商売の経験は浅かった米蔵ですが、「すずや」の仕事を通じ、その商才が頭角を現します。
“自分は商人に向いているのかもしれない”
芽生えはじめた自信が「すずや」の商売を軌道に乗せていきました。

白衣との出会いと刺激された商売魂

そんな「すずや」に転機が訪れます。
白衣販売の依頼を受け、木更津から横浜まで足を伸ばし白衣を売り歩くようになったのです。衛生法の徹底により食品や美容業界向けの白衣の需要が高まっていた時代、白衣は飛ぶように売れていきました。休みもなく自転車で横浜中を駆け回り白衣を売り歩く日々。そして木更津と横浜の往復を繰り返す生活の中で、横浜の持つ活気に米蔵の商売魂が刺激されていったのです。

喜代の英断が切り拓いた横浜への道

“横浜に商売の拠点を移し、白衣販売にさらに力を入れる”
米蔵のこの提案に元々横浜出身でもあった喜代は二つ返事で承諾。
新しい店舗兼住宅探しがはじまりました。最初に目を付けたのは、横浜市野毛のとある物件。露天商が近くにあるこの場所は、商売をはじめるのにうってつけの場所でした。しかし、ここで大きな問題が発生します。そう、移転するお金がなかったのです。目の前に商売拡大のチャンスが広がっているのに手が届かない…
この窮地に喜代が大きな決断を下します。
“「すずや」を売りましょう”

1951横浜の厳しい逆風が生んだアイディア

すずやを売却する、それは今まで築いたものをゼロにするということ。
そして、喜代が立ち上げた洋裁塾を閉めるということ。米蔵の商才を信じた喜代の英断でした。こうして様々な苦労を乗り越えた二人は、1951 年の 3 月、横浜の日ノ出町に白衣専門店の看板を掲げ、新たなスタートを切ったのです。しかし、予定とは違い、移転当初の日々は順風満帆とはいきませんでした。家計を支えるため店舗にミシンを置き、白衣販売の他に下請けの仕事もはじめた喜代。米蔵は以前にも増して白衣の外商に力を入れていきます。
それでも好転しない現状…。
厳しい現実の中で、米蔵にあるアイディアが浮かびます。
二人は再び転機を迎えようとしていました。

1953「売る」だけでなく「作る」
-第一被服有限会社の誕生-

“オリジナルの白衣を作って販売しよう”
卸売業に加えてメーカーの側面も持たせる、自分の経験と喜代の縫製技術があればきっとうまくいくはずだ… この米蔵の読みが的中します。二人は他社では生産できないような特注品も積極的に受注、無理難題もアイディアと技術力を駆使し、お客様に満足いただける商品を提供し続けました。そして横浜に移転して 3 年目の 1953 年、第一被服有限会社を設立。米蔵と喜代、そして二人を支えたスタッフが横浜の街に受け入れられた瞬間でした。その後スクーターを導入したことで、行動範囲が拡大、それに比例して商売も右肩上がりに。
そんな中、思いがけない話が第一に舞い込みます。

大仕事の受注、
そして、開けた未来への展望

舞い込んだ話、それは米軍の将校クラブで働くウエイトレスのユニフォーム作成の仕事、第一の技術力を見込んだクラブ総支配人直々の依頼でした。クラブのウエイトレスのユニフォームといえば最新のファッショナブルなもの、難しい課題でしたが第一はこれに応えます。創意工夫を凝らした喜代のデザインは大変気に入られ、その後注文が殺到。この仕事を成功させたことが、第一の名をさらに高めるきっかけになったのです。そして米蔵と喜代は同じ気持ちを抱くようになります。
“会社をもっと大きくして、より多くの人に私たちの服を届けたい”
二人の目の前には第一被服の大きな未来が広がっていきました。

ダイイチイズムの画像

その後、
高度成長期の波に乗り成長を続けた第一被服は
1970 年に社名を現在の株式会社ダイイチに変更。
日ノ出町の小さな店舗があった場所には現在、自社ビルが建っています。

米蔵の販売に対する勤勉と誠実さ。
喜代の生産に対する技術と向上心。
地域に貢献し、後進を育て、
そしてお客様のことを“第一”に考えること。

二人が礎を築いた
この“ダイイチイズム”を
今も、そしてこれからも、
私たちは大切にしていきます。

鈴木米蔵

創業者 鈴木米蔵